前回、義父の末期ガンによる入院・看病から相続までに触れ、エンディングノートの大切さを記事にしました。末期ガン死について、夫から聞いた義母の死の様子と私が体験した義父の死の対照的な2つの死について触れ、最近は末期ガン死はそれほど怖いものではないのではないか?と思うようになりました。

夫から聞いた義母の死

 義母は1992年に6カ月の入院の末、50歳で亡くなったそうです。職場で倒れた時には、全身にガンが転移しており、すでに手の施しようがない状態でしたが、義母自身はガンであることを知らされず、辛いガン治療を施されたそうです。治療とガンによる痛みで鎮痛剤を多用し、意識がもうろうとしているまま、あの世に旅立ったそうです。もちろん、義母へはガンと余命の告知をされていなかったため、治る見込みもないのに苦痛に耐えたにも関わらず、遺された者たちへの最後の言葉は残せませんでした。当時は夫も「可能性のある治療法は何でも試し、植物状態でもいいから生きていて欲しい。」と願っていたそうですが、実母の死の壮絶さを目の当たりにして、深く後悔したそうです。

私が体験した義父の死

 義父は2014年に義母と同じく6カ月の入院の末、77歳で亡くなりました。義母の死の経験から、夫は義父にガンであることと余命を告げました。また、夫は義弟と義妹に相談し無駄な延命治療は止めてもらうことにし、義父は入院末期に緩和ケア病棟に移動しました。そのため、義父は入院した6カ月間に身体的苦痛を訴える事もなかったため、週末には子供たちの家に宿泊して孫たちとも過ごし、安らかにあの世へ旅立ちました。死ぬ間際の義父は、「死への恐怖もあるが、入院時の夜の寂しさが辛い」と言っていました。私の想像ですが、義父にとって、最愛の妻が先に天国で待っていると思うと、周りが思うほど死への恐怖がなかったのかもしれません。
 また、「どうせ死ぬなら「がん」がいい (宝島社新書)」には「ガン治療は不要であり、ガンは手出しをしなければ、痛まず穏やかに死んでいける。治療せず放っておいた方が平均生存期間も長くなる。医者の常識に騙されるな。」と書かれており、まさに義父の末期ガンはそうであったように思われます。

遺された者たちの負担と「死ぬ義務」

 私は幼い頃に交通事故で実父を亡くしました。体格が良く、快活だった父があっけなく死に、「人は、いつどうなるか分からない。」と漠然と思ってはいました。
 ガンという同じ病気でも、義母と義父の死は対照的です。私は義父のような死を選んで、さらに遺された者たちへ様々な感謝の言葉を伝えたいと思うようになり、エンディングノートを書くようになりました。夫も常日頃からそのように思っているようです。
 私自身も脳に持病を抱えており、夫もガン家系で大腸の病を患っています。夫婦ともども、いつその時を迎えるか分かりません。2人とも「寝たきりになって、遺される者たちへ負担を掛けたくない。」と思っています。
 そんな折、ネットで「死ぬ義務」について知りました。以下に論文の要約を紹介しておきます。今後、高齢化社会を迎えるにあたり、「死ぬ義務」の必要性について考えさせられます。

「死ぬ権利」とは、終末期の患者が、さらなる治療を拒否して死を早めることを自らの意思で決定できる権利をさす。「死ぬ義務」とは、終末期の患者や老人は、家族の負担や医療コスト等の社会的要因から、延命のための治療は拒否して死を早める義務があると感じることである。日本、欧米の生命倫理に関心をもつ看護婦、医師および生命倫理学者それぞれ121名、64名を対象に、この二つの概念に対する意識を調査した。結果、死ぬ権利は欧米は全員、日本も大多数が支持した。死ぬ義務については、欧米の支持率は高かったが、日本は支持しない人のほうが多かった。自由記述からしばしば出現したテーマは、「自己決定」、「命の意味」、「公正」、「患者と家族との愛」である。それらの意味の両群の相違点と類似点を探索し、終末医療の問題をかかえる日本と欧米が相互に学ぶ必要を示唆した。

生きる権利と死ぬ義務

人生の最期をどのように生きるのか

 岐阜県の飛騨高山市には千光寺という1200年前に建てられた古いお寺があります。そのお寺の大圓(だいえん)住職は、医療・福祉の現場で「心のケア」に関する講師を数十年務めておられます。
 大圓さんが最近、You Tubeで心のケアに関することの情報発信を始められたようです。大圓さんのYou Tubeを見て、心豊かな老後・死後を迎えたいものです。今後の動画公開が楽しみです。

大圓さんと夫のつながり

 夫の小さい頃は、義父曰く「悪でっち(飛騨弁で悪童)」だったそうです。そのため、小学校の頃から夏休み、冬休み、春休みのたびに1週間から2週間ほど千光寺に預けられていました。夫は50歳を過ぎた今でも「悪でっち」ですので、当時は相当大圓さんに御迷惑をおかけしたことでしょう。
 数年前、私達の住む街の近くで、大圓さんの講演会がありました。
御挨拶に伺うと、「奥さん、彼はね、悪でっちというよりワンパクだから!」と笑ってらっしゃいました。本当に出来た方です。
・・・アリガタヤ・・・m(__)m・・・ アリガタヤ・・・
 以下の本は大圓住職の著書の1つです。「いさぎよく生きる」とは、再生できない過去にとらわれる苦しみを手放して、今と未来に希望をもって生きようとすること。全国で講演会などを行う行動派の大圓住職が、シンプルな生き方や瞑想のスキルを提案する著書です。